SaaSのパラドックスを越えられるか:AI時代に生き残るSaaSの条件
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SaaSアポカリプス、つまり「AIエージェントによって既存SaaSが不要になるのではないか」という議論が出てから、しばらく経ちました。
以前、私のブログでも、SaaS企業が生き残るには単にAIを搭載するだけではなく、既存のシート課金モデルをどう変えていくか、そしてAIでどのように付加価値をつけるかが重要だと書きました(「SaaS終焉論」の先にあるもの:ルールベースの正確性とAIエージェントが融合する未来)。
今回のSaaS各社の決算を見ると、その答えが少しずつ見え始めているように思います。
AIをうまく味方につけて、既存のシート課金に過度な圧力をかけず、新しい付加価値を上乗せできる企業と、AIによる効率化の価値を自社の収益にうまく取り込めていない企業の明暗が分かれ始めています。
ここで重要になるのが、SaaSのパラドックスです。
SaaS企業にとって、AIは顧客の業務効率を高める強力な武器です。一方で、その効率化が進むほど、従来のユーザー数や利用席数を前提にした成長モデルには圧力がかかる可能性があります。
つまり、AIはSaaSの価値を高める一方で、既存の収益モデルを再設計させる存在でもあります。
そのため、ポイントは単にAI機能を追加しているかどうかではありません。
SaaSが持つ独自データやワークフローを使って新しい課金ポイントを作れているのか。あるいは、AI時代だからこそ必要になる新しい運用レイヤーを押さえられているのか。
ここが、これからのSaaS企業を見るうえで重要な分岐点だと思います。
Datadogは「AIに食われるSaaS」ではなく「AIをガードマン」として利用している
まず、今回もっとも分かりやすく評価されたのがDatadogです。
Datadogの株価は決算後に大きく上昇しました。Datadog の Q1 FY2026 決算発表によれば、Q1売上は前年同期比32%増の10.06億ドル、フリーキャッシュフローは2.89億ドル、通期見通しも上方修正しています。
Datadogの面白さは、AIを使って既存業務を効率化するSaaSではなく、AIを本番運用する企業が抱える新しい不安そのものを収益源にしている点です。
企業がAIアプリやAIエージェントを本番環境で使い始めると、単にモデルを動かすだけでは足りません。
- どのモデルが動いているのか
- どのプロンプトが失敗しているのか
- どれだけトークンを消費しているのか
- 回答品質は落ちていないか
- GPUは無駄なく使われているか
- 障害時にどこが原因なのか
- ハルシネーションや不適切な応答は起きていないか
これらを常に監視する必要があります。
しかも、AIが生成するログ、プロンプト、回答、遅延、エラー、コスト、品質劣化は、人間が一つずつ確認できる量を超えていきます。
ここにDatadogの強みがあります。
Datadogは、既存のクラウド監視ビジネスを、AIアプリやAIエージェントの監視に拡張しています。LLM Observabilityでは、AIアプリのプロンプト、回答、遅延、エラー、品質、コストを監視します。Bits AIでは、障害原因の調査や対応を支援するAIエージェントとして、エンジニアの運用負荷を下げます。
つまり、DatadogはAIを動かす側ではなく、AIを見張る側にいます。
多くのAIアプリ企業にとって、トークン消費やGPU利用の増加はコスト増です。
しかしDatadogにとっては、AI利用が増えるほど、監視対象が増え、ログ、メトリクス、トレース、トークン関連データも増える構造です。
これは、AI時代における非常に分かりやすい勝ち筋です。
AIを導入したSaaSではなく、AIを運用するために必要になるSaaSになっているからです。
Atlassianは、社内データをAIの付加価値としている
一方、AtlassianはDatadogとは違う方法で、AIの付加価値をつけています。
Atlassianの株価も、決算後の時間外取引で大きく上昇しました。
その背景には、AI検索・エージェント機能であるRovoへの評価があります。Atlassian の Q3 FY26 株主向けレターでは、Rovoを利用している顧客のARR成長率が、利用していない顧客のおよそ2倍であると説明しています。また、AIクレジット利用も月次で20%以上伸びているとしています。
Rovoは単なるチャットボットではありません。
Jira、Confluence、Slack、Google Drive、GitHubなどに散らばる社内情報を横断検索し、業務文脈を理解して、次のアクションにつなげるAIエンジンです。
Jiraには、タスク、バグ、仕様変更、担当者、進捗、意思決定の履歴が残っています。
Confluenceには、仕様書、議事録、社内ナレッジ、過去の判断理由が蓄積されています。
これらは、一般的なLLMが簡単に学習できるオープンな情報ではありません。
しかし、企業の業務には直結しています。
つまりAtlassianは、SaaSが長年蓄積してきた「その企業固有の業務データ」を、AIによって新しい付加価値に変えようとしているのです。
これは、SaaS企業がAI時代に生き残るための一つの有力な方向性だと思います。
汎用AIモデルは賢くても、その会社固有の業務文脈までは持てません。
一方で、SaaSには、日々の業務利用を通じて蓄積された独自データがあります。
この独自データをAIで活用できれば、企業固有の業務知識を扱うAIになります。
ServiceNowは、AIエージェントに対する「業務データの入口」を押さえようとしている
ServiceNowも、Atlassianに近い方向性だと思います。
ServiceNowは、外部AIエージェントがServiceNow内のデータにアクセスし、ワークフローを実行するためのレイヤーとしてAction Fabricを発表しました。Anthropicは最初のデザインパートナーとして、Claude CoworkをServiceNowの業務実行レイヤーに接続します。
ServiceNowがやろうとしているのは、AIエージェントが企業内の業務データにアクセスし、タスクを実行するためのインターフェースを作ることです。
つまり、ServiceNow内にあるデータ、ワークフロー、承認、権限、実行履歴を、AIエージェントが安全に使えるようにし、そのアクションに対して課金する構図です。
これは、SaaSが持つデータと業務文脈をモートとみなす戦略です。
AIエージェントがどれだけ賢くなっても、企業の中にある実際の業務データや承認フローに接続できなければ、現実の仕事は完結できません。
ServiceNowは、その接続口を押さえようとしています。
この意味で、ServiceNowはDatadogよりもAtlassianに近いと思います。
Atlassianは、JiraやConfluenceに蓄積された社内情報をAIで活用する。
ServiceNowは、自社の業務データとワークフローをAIエージェントが使えるインターフェースに変える。
どちらも、SaaSが持つ独自データや業務文脈をAI時代の付加価値に変えようとしている点で共通しています。
SaaSのパラドックス:HubSpotは、AIが既存シート課金に影響を与える懸念がある
一方、HubSpotは対照的です。決算発表後、株価が大きく下落しました。
HubSpotは2026年第1四半期に、売上高8.81億ドル、前年同期比23%増で、顧客数も約29.9万社まで増えています。数字だけを見ると、決して悪い決算ではありません(HubSpot Q1 2026 業績発表)。
それでも株価が大きく下落したのは、AIによって従来のシート課金モデルが圧迫されるのではないか、という懸念があるからだと思います(Barron’s の関連報道)。
HubSpotは、CRM、Marketing Hub、Sales Hub、Service Hubなどを提供する典型的なSaaS企業です。
これまでの価値は、営業、マーケティング、カスタマーサポートの人間が使う業務ソフトにありました。
つまり、多くの人が使い、チームが拡大し、シート数や利用範囲が増えるほど売上が伸びるモデルです。
しかし、AIが営業メールを書く。
AIがリードを分類する。
AIが顧客対応を自動化する。
AIがマーケティング文面を生成する。
AIが問い合わせを処理する。
こうなると、顧客企業はより少ない人数で同じ業務を回せるようになります。
顧客にとっては効率化です。
しかしHubSpotにとっては、シート数減少のリスクです。
たとえば、これまで3人で行っていた営業・マーケティング・サポート業務が、AIによって1人で回せるようになったとします。
その場合、顧客企業にとっては生産性向上です。
しかし、HubSpotにとっては、必要なID数や利用シート数が減る可能性があります。
ここに、SaaSのパラドックスがあります。
AIを導入すれば顧客価値は上がる。
しかし、そのAIが人間の作業を代替しすぎると、従来のシート課金を自ら壊してしまう。
これはHubSpotだけの問題ではありません。
人間の作業量や利用者数に課金してきたSaaS全体が直面する構造的な課題です。
Salesforceの難しさは、AIが既存CRMの上乗せになるのか、置き換えになるのかが見えにくい点にある
Salesforceも、この問題を考えるうえで重要な企業です。
SalesforceはAgentforceを通じて、AIエージェントによる業務実行を新しい収益源にしようとしています。同社は2026年度第4四半期決算で、Agentforce ARRが8億ドル、前年比169%増だったと説明しています。
この数字だけを見れば、SalesforceがAI化に失敗しているとは言えません。
しかし、SalesforceにはHubSpotと同じようなSaaSのパラドックスの懸念があります。
Salesforceの中核価値は、営業、マーケティング、カスタマーサポート、人材、業務管理など、人間が顧客情報を入力し、参照し、更新し、次のアクションを管理するところにありました。
つまり、Salesforceも基本的には人間の業務担当者が使うSaaSとして成長してきました。
ここにAIエージェントが入ると、二つの可能性が生まれます。
一つは、AIがSalesforce上のデータを活用し、営業やカスタマーサポートの成果を高めるケースです。
この場合、AIはSalesforceの価値を高める上乗せになります。
しかしもう一つは、AIが人間の作業を代替し、営業担当者やサポート担当者の作業量を減らすケースです。
この場合、AIは顧客企業にとっては効率化になりますが、Salesforceにとってはシート数や既存ライセンスの伸びを圧迫する可能性があります。
Salesforceの難しさは、Agentforceが本当に既存CRMの上に新しい収益を作るのか、それとも既存の人間向けCRM利用を一部置き換えてしまうのかが、まだ完全には見えにくい点にあります。
さらに、AIエージェントが実際に営業やサポート業務を代行するようになると、顧客が求める価値も変わります。
これまでは、CRMの価値は「人間が顧客情報を管理しやすいこと」でした。
しかしAI時代には、「AIエージェントが顧客情報を理解し、自律的に次のアクションを実行できること」が重要になります。
この変化は、Salesforceにとって大きなチャンスである一方、既存のシート課金モデルには圧力をかけます。
AI化を進めれば進めるほど、これまでの人間向けCRMモデルと、AIエージェント向けの新しい課金モデルの間で、移行の難しさが表面化しているのだと思います。
ここが、DatadogやAtlassianとの違いです。
Datadogは、AI利用が増えるほど監視対象が増えます。
Atlassianは、AIによって社内データの価値を引き出し、既存ワークフローへの依存度を高めます。
ServiceNowは、AIエージェントが業務データにアクセスし、実行する入口を押さえようとしています。
一方でSalesforceは、AIが既存CRMの価値を高める可能性と、既存の人間向けシート課金を圧迫する可能性の両方を抱えています。
Microsoft Copilotも、人間向けUIの延長にとどまると付加価値が出にくい
Microsoft 365 Copilotも、同じ問題を抱えています。
Word、Excel、PowerPoint、TeamsにAIを入れること自体は自然な流れです。
しかし、これらのツールはもともと人間が画面を操作することを前提に作られてきました。
Wordで文章を書く。
Excelで表を作る。
PowerPointで資料を作る。
Teamsで会議をする。
この人間向けUIにAIを入れると、たしかに作業は速くなります。
しかし、作業が速くなることと、Microsoftが追加で大きな収益を得られることは別問題です。
AIが文章作成や資料作成を効率化するだけなら、顧客企業にとっては生産性向上です。
しかし、それが既存Office製品の上に十分な追加収益を作れるのかは、大きな疑問です。
MicrosoftはCopilotの利用拡大を進めていますが、職場でのAI導入には組織変革の壁があることも自ら指摘しています。Microsoft の Work Trend Index では、AI導入の必要性を感じながらも、既存目標を優先する方が安全だと考える層が存在することが示されています。
OfficeにAIを入れるだけでは、AIネイティブな価値にはなりません。
本当に価値が出るのは、企業内のデータ、権限、ワークフロー、意思決定、実行までつながったときです。
つまり、人間向けUIにAIを載せるだけなのか。
それとも、AIが業務を理解し、実行し、継続的に改善するレイヤーまで進化できるのか。
ここが分岐点になります。
SaaSが生き残るための二つの勝ち筋
今回の決算と市場反応を見ると、SaaS企業がAI時代に生き残るための勝ち筋は、大きく二つあると思います。
一つ目は、SaaSが持つ独自データや業務文脈をAIの価値に変えることです。
AtlassianとServiceNowがこの方向です。
SaaSには、長年の業務利用を通じて、会社ごとの固有データが蓄積されています。
プロジェクトの履歴。
顧客対応の履歴。
営業活動の履歴。
障害対応の履歴。
社内ナレッジ。
承認フロー。
意思決定の文脈。
業務実行の履歴。
これらは一般モデルが持っていない情報です。
しかも、業務に直結しています。
この非公開で、業務に近く、継続的に更新されるデータをAIで活用できる企業は、SaaSとしての価値をむしろ高められる可能性があります。
SaaSが持つデータは、AI時代には単なる保存情報ではなく、モートになります。
そしてそのモートを、検索、推論、実行、課金につなげられるかが重要になります。
二つ目は、AI時代だからこそ必要になる新しい運用レイヤーを押さえることです。
Datadogがこの方向です。
AIエージェントやAIアプリが増えれば、モデルを動かすだけでは足りません。
AIの挙動を監視し、品質を確認し、コストを把握し、障害を検知し、GPU利用を最適化し、リスクを抑える必要があります。
これは、人間の手作業では追いつきません。
AIが生成するログ、プロンプト、回答、トークン消費、エラー、遅延、品質変化は、AI時代特有の新しい監視対象です。
Datadogは、このAIネイティブな運用領域を取りに行っています。
つまり、AtlassianやServiceNowは、SaaSが持つ業務データをAI時代のモートに変える企業です。
Datadogは、AI運用そのものを監視する新しいインフラSaaSです。
同じ「AIを味方につけるSaaS」でも、両者の性質は違います。
ここを分けて考える必要があります。
SaaSのパラドックス、つまりAIを導入することで顧客の業務効率を高める一方、従来のシート課金モデルには圧力がかかるというジレンマを克服し、SaaSが持つ独自データとAIネイティブな運用領域をうまく収益に変えられるかどうかが、今後のSaaSの生き残りの分岐点になると考えます。
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